Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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哲学③(test)

2019年02月21日(木)
ジュディス・バトラー は記述レベルでどれだけ成功したかどうかは別にして、権利問題をその都度の経験の事実それ自体として生きかつ考えることに自らの理論と実践を捧げている。それが彼女が本物の哲学者である理由である。しかしこれはカントの最高の成果であるとともに弱点でもある。 哲学は事実問題と権利問題の裁断の上に安住できない。哲学とは権利問題をその都度の経験の事実それ自体として生きかつ思考することである。この「生きかつ思考すること」が「自己の創造・発明」である。カントは単なる経験的事実に関わる「事実問題」と可能性の条件に関わる「権利問題」(であり得る)を区別し後者を哲学の問題としたが両者を裁断し前者を哲学から排除する傾向が強かったため純粋理性批判とは別に実践理性批判を書くことになった。別個に「叡智界」を措定したのもその為である。
2019年02月20日(水)
「そして時に、集会を行うという行為は、身体的に集まることのできない人々のためにあり、そしてその不可視のネットワークは、彼ら彼女たちが利用できるような集会の形式なのである。」 ジュディス・バトラーの言葉
「集会は、現れることのないネットワークに依挙し、現れの領域を形作りうるテクノロジーに依挙している。従って、人々は集会を行うが、集会を行うという行為は、そこに集まっていない人々に、そして集会のテクノロジーに依挙している。」 ジュディス・バトラーの言葉

自ら語っているがフーコーに対するハイデガーの影響は決定的でありフーコーの哲学的果実のほぼ全ては ニーチェ 以上にその根底においてハイデガーの系譜だと言ってもいい。フーコー最初期の仕事は1954『 ビンスワンガー 『夢と実存』への序論』である。
2019年02月19日(火)
「哀悼可能性とは、ある生の喪失が対象化可能であるのに対し、ほかの生はその対象化可能性が少ないか、あるいは全くないことを意味する概念である。」ジュディス・バトラー の言葉 この批判に類比的な作業を私は 汎優生主義批判の形で行った。
「生の価値が不平等に配分される世界にある中で、私たちは生政治的なーーあるいは死-政治的なーー哀悼可能性の配分への批判を必要とする。」 ジュディス・バトラー の言葉
「その世界では、すべての生は生きている世界に等しく結びつけられたものとして価値を持ち、生きているものと死んでいるものの両方に負うところがあり、そして、世界を再生させる使命を帯びている。」 ジュディス・バトラー の言葉
「再生のダイナミックな条件は、たとえどれだけ苦難と困難に満ちていたとしても、私たちの生がよってたつ条件であり、よひいっそう私たちを生きさせてくれる世界を再生産するために守らなければならない条件である。」 ジュディス・バトラー の言葉
「 セクシャリティ と ジェンダー の領域で既存の学問領域が発揮している権力を失効させるためには、新たな主体性を形作ることが決定的であった。」
2019年02月17日(日)
哲学 と一体不可分な形で 地政学 を思考し実践することができないと相手(究極的には個人)を相手の根本理念のレベルで(最上位の戦略レベルで)読むことができない。つまり対等な立場でのグレートゲームが一切できなくなる。すなわち半永久的に傀儡または属国でしかあり得なくなる。
某国軍人そのものかどうかは別として 哲学 と一体不可分な形で 地政学 を思考しているということがこの国のそれに相当するポジションの人間たちとの決定的な違いだろう。少なくても幕末まではこの国の人材もそうだったのだがその後の経緯は実に残念だ。
2019年02月16日(土)
しかしそもそも「架橋する」ということがいったい何をあるいはどのような事態を意味するのかという問いはなかなか難しい問いである。
もし「ギリシャの系譜」を持つという意味での(「英米哲学」を含む「西欧哲学」と呼ばれたりする)「 哲学 」がそれ以外の系譜を持つ「哲学」と架橋するための言葉を持つとすれば、その一つの候補として(それだけではないが)「intention,intentionality」が挙げられるだろう。
2019年02月14日(木)
カント と ウィトゲンシュタイン と フーコー の核心的な共通キーワードは「図式」または「ダイアグラム」である。これはカント的に言えば、 哲学 の秘術に属する。
2019年02月06日(水)
マルクス・ガブリエル の「説明構造」としての「Geist:精神」をベースにした議論は マックス・ウェーバー の「社会的行為」の復権として意味がある。だがマックス・ウェーバーに完璧に包摂される。新規性はない。ウェーバーの偉大さの再確認だ。
2019年02月04日(月)
マルクス・ガブリエル というのはどう見てもアクチュアルな哲学者というよりも古い20世紀型の カルチュアルスタディーズ または ポリティカルコレクトネス のイデオローグだ。存在価値がないわけではないがこの国で持ち上げるのは恥ずかしい。
2019年02月03日(日)
それが現状では「フェイク 哲学者 」(実のところ哲学とは何の関係もない)が満ち溢れているシンプルな理由である。
これはすべての 哲学者 に言えることだが、かつてここで述べたように、既に身をもって ニーチェ を生きていない者は、ニーチェを理解することは決してできないということである。しかしまさにここにこそ、ニーチェ 自身の皮肉骨髄、真実、核心がある。これを身をもって理解できない人間はそもそもニーチェを読む資格、語る資格を欠いている。 つまり 哲学 に無縁だということだ。
哲学 皮肉骨髄の欠けた人間はほとんど全て淘汰されるだろう。ところで ニーチェ 最大のジレンマとは、一方で「 永遠回帰 」が ゾンビ あるいは「おしまいの人間たち」を徹底的に根絶すると宣言しながら、他方で「おしまいの人間たちは地蚤のように根絶し難い」と記していることだ。
2019年02月02日(土)
引用⑦「その思想的枠組みによって個々の事物に対する見方がどのように「転換」するのか、ということについてのイメージがない哲学というのは、結局「専門家」の中だけの「驚き」で終わってしまうのではないかな」
引用⑥「とどまっているのではないかな、と推察されます。別に「役に立つかどうか」と言ったことではなく、
引用③「そんなことまでするくらいなら、仮に欠損があったとしても、より「人間的な」相関主義で十分なのでは、とも思ってしまいますがね笑 内容的なことについて言えば、 メイヤスー 氏の「スーパーカオス」にしても」
引用②「「人間枠」を脱して「 絶対」に至りたい、という志はわかるが、仮にそこに達したとして、それは何か「点」のように小さな、ほとんどそれ自体何ももたらさないような「絶対」でしかないようにも思われます。」
この山本幸生氏のアマゾンレビューは興味深い。以下「追記」から引用①「 メイヤスー 氏の論というのは、何か「相関主義」という地雷原の中をものすごく緊張しながら匍匐前進している、という感じでちょっと痛々しい」
2019年02月01日(金)
必要ないのだが、業界の都合またはこれまでの成り行きで チャーマーズ や デネット を今さらながらに相手にするのは マルクス・ガブリエル に任せておこう。


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